撮影:森日出夫
撮影:森日出夫

「ちぐさ」の親父 吉田衛 横浜昔ばなし②
  ちぐさアーカイヴ・プロジェクト監修 柴田浩一

 
・弁当屋のこと
 大正時代には、居留地には、食堂や、それに類する店はありませんでしたから、商館勤めの人達の昼食を運んでくる弁当屋という商売がありました。現在のように、他処(よそ)で作った弁当を届けに来る訳ではなく、館員の人達の家々を廻って手作りの弁当を受け取り、お昼に配って歩く、いわば便利屋みたいなものなのです。車に積んでこられた弁当には、届先の名前、(例えば何商会、何々様)と書いた木札を下げてありました。届けてくる弁当箱は、今も見かける瀬戸物の重ね鉢で、必ず木箱に納め先の名札が下げてありました。一軒あたりいくら位で請け負っていたのか、子供の私にはよくわかりませんでしたが、多分一ヶ月五十銭位で、一円とは取っていなかったのではないでしょうか。無論、弁当運びを頼むことの出来るのは、商館勤めでもある程度の地位の人達だけだったのでしょう。

 

・商館番頭
 各々の商館には番頭がいて、私達は商館番頭と呼んでいました。彼らは大正時代には着物に角帯、前掛をかけているのが普通で、洋服を着るようになったのは震災後です。住み込みの番頭というのではなくて、みんな他処から通勤していましたが、例外は蔵番で、これは留守番兼蔵番として住み込んでいたのです。番頭はその商館の中のチーフであり、マネージャーでしたから、とても権威があり、商売のことでは、普通は館主はめったに口を出さないのです。店の中のことは、どんな小さなことも番頭を通さなければ上に伝わらない組織になっていましたから、下に働く者にとって、番頭さんはとても怖い存在でした。

・商館の主人たちのことなど
 外国人の館主達は、多くは山手の住居から通っており、各館の交流は、主に同国人同士付合っていたようです。各々の国のクラブがあって、そこに集って酒を飲んだり歓談していたのでしょう。
 当時外国人は、東洋人に対する偏見があり仲々日本人を信用しませんから、金庫番をして鍵を預けるまでの信頼を得るのは、実にむずかしいことでした。然し一旦信用するとなると、他からの中傷には一切耳をかさず、厚い信頼を示しました。一方、中国人に金銭(かね)のことを任せる館主が多かったのは、華僑の常として団結も強く当時から財力もあった中国人達には、万一の場合には、銀行の保証も得られたからなのでしょう。
 「どんたく」という言葉がありますが、私の知る限りでは、大正期の居留地では、日曜日を「どんたく」とは云っていません。ただ半どんという言葉はありました。それは、毎日野毛山で、正午を知らせる空砲がドーンと鳴ると昼休みになり、土曜日だけは、仕事が昼までで午後は休みになるので、半ドンと云うようになったのでしょう。税関も半日ですから商館も午後はどこも休みでした。
 自分のことになりますが、私は昭和二年に、中華街にあったアブカー商会から独立したZ吉田商会のボーイとして入りました。輸出先は、英国・スエーデンその他で、取り扱う品物は、主にシルク、漆器、陶器類です。店は、店主とボーイの私だけという小さな規模ですから、輸出関係の仕事は何でもやらざるを得なかったのです。

 

・大正時代の居留地(山下町)
 明治から震災までの山下町一帯は、商館を空いている土地に次々に建てていったのか、建物に沿った道路も曲がりくねっていて、現在のように整然としていたわけではありません。然し赤レンガや石造りの商館が立ち並んでいる異国風な街並みは、今、写真集などで見かける、巴里の下町の風景とそっくりだったように私には思えます。
 この街も関東大震災で壊滅してしまいましたが、その後始末に陸軍の工兵隊が来て、危険だということで、焼け残った半壊のビルを爆破したのです。薩摩町に現存しているアクメ貿易は(旧蘭領印度銀行)はその時、一階以上を爆破し、地下室の部分だけ残ったのです。あれは明治時代の建物で今もその片鱗が伺われます。もとは丁度県立博物館(旧横浜正金銀行)を思わせる様式の大きな建物でした。又海岸通りに残っている赤レンガの旧バタフィールド商会(現戸田平和記念館)が、わずかに震災前の商館の面影をとどめていますね。
 明治、大正の横浜を偲ばせる洋館も、そのたもとに美しいガス灯が立っていた幾つかの橋も、横浜の街から殆ど消えてしまいました。二度の大きな災害に遭ったとはいえ、戦後まで、やっと焼残っていたものさえ大切にしない、壊したものはもう二度と造れるものじゃないのに実に残念でなりません。

 

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