撮影:森日出夫
撮影:森日出夫

「ちぐさ」の親父 吉田衛 横浜昔ばなし③
 ちぐさアーカイヴ・プロジェクト監修 柴田浩一


・父の仕事
 父が輸出梱包の仕事をしていたことは前述しましたが、輸出用木箱に詰めるパッキングは、震災前には藁を使っていたのです。陶器など重ねてくくるには、古米縄(こまいなわ)というのに霧を吹いて強くして用いました。ところがアメリカから藁に虫が湧くという苦情がきて、それに代る何かをということで、私の父が木毛(もくもう)というのを考え出しました。現在も使われている木くずのようなパッキングがそれです。
 父は特に美術骨董の梱包では名人と云われていました。今のようにコンテナなど勿論ない時代でしたから、破損し易い国宝級の佛像の梱包などは大変むずかしく、父は苦心の末独自の方法を生み出しおりました。その入念な仕事振りを買われて、明治三十年代のパリ万博以来、四年毎に博覧会が開かれる度に、梱包を請負うばかりでなく、出品物と一緒に四回も(パリ・メキシコ・シカゴ・ブラジル)渡航しております。私の家にはポーツマス条約の全権として有名な外務大臣小村寿太郎の署名入りの、両開きで和紙の珍らしいパスポートが残されていますよ。
 昭和十四、五年、ニューヨーク、サンフランシスコで戦前最後の万博が開かれた時には、私も父を手伝って十五、六体の佛像の梱包をやりました。父の仕事を通じて、日本の貴重な美術骨董が国外へ流出していくのを見て残念に思ったこともしばしばありました。


・港の風景
 昭和初期までは、無論トラックなどない時代ですから、輸出入貨物の運搬には、大八車、馬力、それと荷台が少し低く貨物の揚卸しがし易くなっている獨特の車が使われていました。これは御車台もあって雨の日には幌をかけるようになっていました。すべて人力に頼っていた時代ですから、重い木箱を積んだ荷車を引いて坂を上るのは辛い仕事です。地蔵坂など急坂の下には、押し屋がいて、十銭、二十銭の駄賃であと押しをしていたものです。馬を引いて待っているのもありましたよ。
 沖仲士なんかも横浜獨特な気風が今も残っていますね。あれも命がけの大変な仕事でした。その頃港で荒っぽい彼らを仕切っていたのは、三品(さんぽん)組、矢部組、鶴岡組でしょうか。現在藤木企業KKとして残っている藤木組は海岸一帯を取りしきっていたので、戦前は通称「海岸」と呼ばれていましたよ。

 

・人力車のこと
 大正から昭和にかけて、タクシーが街に出現するまでは、人力車が巾をきかせていました。大正時代にはガス燈に「人力」と書いた「人力宿(くるまやど)」を町の処々に見かけました。これは雇い主がいて車夫を何人か抱えて営業していたものですが、他に医者や大商店などでは「お抱え」といって特定の車屋が契約され何時でも間に合うようになっていました。これとは別に「もうろう」と呼ばれて、江戸時代の辻駕籠(かご)のように、街角に一人で客待ちしているのがありました。冬には夜になると戸板で囲った中で焚火して客を待ち、中には法外な料金をふっかける者もありましたが、焼判を押した鑑札だけはみんな持っていました。桜木町、関内、特に桟橋の外に、ずらりと並んで梶棒をおろし、船から降りてくる外人客を待っている光景はいかにも横浜らしい風景だったように憶えています。


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