撮影:森日出夫
撮影:森日出夫

「ちぐさ」の親父 吉田衛 横浜昔ばなし①
  ちぐさアーカイヴ・プロジェクト監修 柴田浩一

 「ちぐさ」 の親父、吉田衛さんは自身、外国人居留地に住んだこともあって横浜の歴史に強い関心をもっていた。そして自分が見聞きしたことを残さなければならないともいっていた。そして遺品の中から見つかったのが本文だ。どなたかが親父のしゃべった話を聞き書きしたもので、横浜や中区に興味のある方には今更ながら嬉しい文である。


●埋地七ヶ町のこと
 私は大正二年、当時埋地七ヶ町(不老町・万代町・翁町・扇町・松野町・寿町・吉浜町)と呼ばれていた土地で生まれた、三代目の浜っ子です。今は中村川だけを残して、みんな埋め立てられてしまいましたが、この七ヶ町は周囲を四筋の川に囲まれた一角でした。
 大岡川にかかる橋を渡れば、山下町の外国商館街、そして勿論港に近い関係で、この埋地には、何らかのかたちで、輸出入に関係のある仕事を持つ人々が数多く住んでいたのです。
 外国商館へ納入する輸出品の陶器、漆器、絹織物を扱う店、また木綿、ちぢみ木綿の加工所も多く、その中の一軒が、後に「横濱浮世絵」のコレクションで有名になった丹波商会です。加工所といっても皆規模の小さい、家内工業的なものばかりでしたね。
 次には輸出用木箱屋、現在(いま)のようにコンテナなどない時代ですから、輸出品はみなこの木箱に入れて積み出されたのです。木箱の専門店は、住吉町の渡辺、中華街の隅田など約六軒ほどありました。後述しますが、私の父はこの木箱に関係のある輸出梱包の仕事を請け負っておりました。
 この埋地には又、港へ働きに行く沖仲士達が寝泊りする人足部屋も建ちならび、それぞれの組の親分が取り仕切っていました。
 現在市役所のあるあたりには、明治の頃から魚市場があり、ここへ通う仲介人の多くも又この町の住人でした。
 つまり七ヶ町は横浜の下町を形づくる活気のある庶民の町だったのです。
 その時分、路地裏を駆け廻って遊んでいた子供達が、別れ際に交わす「アバヨ」の言葉は土地柄から云って、居留地のフランス人の「アヴォアール(さようなら)」からきていたのでないかと私には思えるのですが・・・ 戦後、「バイバイ」が日本語化してしまったようにね。
 余談ですが、私の通った寿高等尋常小学校は、大正八年の埋地の大火のあと、鉄筋コンクリート三階建て、コの字型の校舎として再建され、これは、時代からいって日本では初めてと思います。その後震災にも戦災にも倒壊せず残っていましたが、先年区画整理のため、取り壊されてしまったのは卒業生の一人としては本当に淋しいことです。

 

●居留地に住んでいた頃
 居留地のことを書いた本は沢山ありますが、其処に住み寝起きした経験を持つ人は少ないのではないでしょうか。前述の埋地の大火で焼け出された父は、荷造業だった関係で、山下町49番のクーパー商会へ蔵番として住み込み、私共一家は、一時期居留地内に住むことになりました。私が六才の時です。
 商館の倉庫の、二階の板の間に六帖の畳を敷いて、家族も一緒に暮すことになったのです。現在の上野運輸KK本店の位置で、前に赤レンガ二階建のシンガーミシン日本総代理店がありました。道路を隔てたすぐ隣りが、現存する48番へルム・ハウスです。
 このあたりは、昼は商売に忙しい人々の出入りの多い街ですが、夜になると商館主も蔵番だけを残して山手の住居に帰ってしまいますから、ガス灯だけが灯(とも)る人気(ひとけ)のない淋しい街になります。附近には食物(たべもの)を売る店も、無論ありませんから、母は橋を渡って埋地へ毎日お菜を買いに通っていたようです。おとな達がみんな忙しい居留地では、私の遊び相手など一人もなく、昼は桟橋へ魚釣りに行ったり、女工さん達が立ち働く倉庫へ入って遊んだりしたものです。
 以下はそれ以後私が見聞きした、居留地の有様です。


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